左右 by デリダ

以下、2ch某スレより抜粋。


現代思想 1999.3

−−−右翼と左翼というカテゴリーがいまだ妥当性を持っているかという問題が出てきます。どうお考えになりますか。

デリダ

私が思うに、この対立はかつてないほど必要であり有効なものです。

たとえ現実には、この二つの物を分ける基準や分離が大変複雑になっているとしてもです。
例を示しましょう。ヨーロッパに反対して、またユーロに反対して、
それらが予告さているようなあり方に対して、
ある一定の右翼とある一定の左翼はなるほど実質的に連携しており、
あるときには「国民的な」価値の名の下に、あるときには社会的政策の名の下に、
さらには両方をひっくるめてそうしてるのは事実です。

同一のレトリックを用いながら、また同じく「国民的なもの」や「社会的なもの」を
尊重したいと望む言説を用いながら、
別の左翼や別の右翼はヨーロッパやユーロに賛成して連携しています。

どちら側でもその論理やレトリックは非常に似通っています。
たとえ実際的な運用や実施の仕方、またそこに絡む利害が食い違っているとしてもです。
このとき、長い議論の展開が求められる問題に手短に、細部は省略して答えるために、
次のように言っておきましょう。
私にとって左翼こそはそこに断固として自分を認めたいと思ってる陣営でありますが、
この左翼は、この両義性の持つ困惑させるような新しい論理を今日分析し、
その構造を実際的に変えていこうとする側に位置している、と。

そしてそれとともに、政治的な構造そのものを変え、政治的言説が連なる伝統の再生産を変革しようとしているのだと。
そのために私にとって出発点となるのは、次の最小の公理です。
左翼とは、未来を肯定し、変化する欲求であり、それも最大限可能な正義の方向に向かう変化の欲求です。
何も私は、どの右翼も変化や正義に無関心であるなどというつもりはありません
(そんな言い方は正義に反するでしょう)。
そうではなくて、右翼は決して変化や正義を、その活動の第一の原動力とすることも、
その原理とすることもないということです。
労働という概念そのものに根本的な変化が生じたにもかかわらず、
いまだ時代遅れになっていない区別をもう一度取り上げるならば、
左翼は常に「資本」の投資収益よりも労働の所得のほうを優先させ続けるでしょう。
右翼はどこまでも、投資収益は労働の所得を左右する条件であると言い立てるでしょう。
「右である」とは保守せんと試みることにあります。
だが何を守ろうとするのか。
ある特定の利害よりも、さらに根本的には権力を、富を、資本を、社会的そしてそして
イデオロギー的」な諸規範、等々を守ろうとします。
個々の政策よりももっと根本において、右翼はどこまでも、「政治的なもの」そのものの構造を、
市民社会や国民、国家等々の間にある関係の、
ある一定の伝統的な構造を保守しようと努めるでしょう。
左翼と右翼をこうした仕方で対立させていこうとするなら、
首尾一貫して左であり続けることは、これはもう間違いなく、決して容易なことではありません。
難しい戦略なのです。